ソウル(鍾路区)

鐘路区付岩洞に位置する紫霞美術館は2008年に開館したソウルで最も高いところにあるギャラリーです。展示室は1階と2階にあり、2階からは、素晴らしい景観を見渡すことができます。


ソウル(鍾路区)

安国洞(アングクドン)交差点から鐘閣(チョンガク)方面に南北に走る郵征局路(ウジョングンノ)を南へと歩いていくと、すぐ右手に民家と軒を連ねている小さな建物が見えてきます。それが郵征総局(ウジョンチョングク)の建物です。 この郵征総局は朝鮮時代末期、郵政業務を行っていた官庁です。日本とアメリカを視察した洪英植(ホン・ヨンシク)の建議により、従来の駅伝法を改正し近代式の郵便制度を創設、1884(高宗21)年3月27日(陰暦)、旧・典医監(チョニガム=朝鮮時代、宮中で使われる医薬の供給や下賜された医薬にかかわる業務を担った機関)の建物を改修する形で郵征総局を設置しました。 この郵征総局は韓国国内の郵便事務よりも、仁川(インチョン)、釜山(プサン)、元山(ウォンサン)などの港を経て発送・到着する国際書信の交流事務に力点を置いていました。郵征総局は韓国初の近代郵便制度が始まったところですが、従来の政治体制を変革しようと試みた甲申政変(カプシンチョンビョン)が起こった場所としても有名です。 清と閔氏一族の勢力が1882年壬牛軍乱(イモグルラン)を契機に徐々にその勢力を拡大すると、これに危機感を抱いた金玉均(キム・オッキュン)、朴泳孝(パク・ヨンホ)、徐載弼(ソ・ジェピル)などの改革派が政権奪取を目指し、郵征総局営業開始を祝う宴の当日の1884年12月4日(旧暦10月17日)に甲申政変を起こしました。 この当日、郵征総局の隣の民家に火を放ち、これを合図に保守派に対する攻撃を開始しました。 改革派が当時掲げた革新政綱には、両班(ヤンバン)中心の政治社会の支配秩序を打破し、民衆の平等と自由を実現する富国強兵の自主独立国家の建設を目指すことが書かれていました。 しかし、肝心の民衆の理解や関心を引き寄せることに失敗、加えて改革派を支援していた日本軍さえも清国軍に撃破され、政変は三日天下に終わってしまいました。 郵征総局の建物は何棟かあったものと思われますが、現在では現存の建物1棟のみが残っている状態です。郵征総局は韓国郵便事業の発祥地であり、また世界的に見ても古い部類に入る郵便業務を主管する官庁の一つに数えられています。  1884年12月に甲申政変により開業間もなく閉鎖された郵征総局でしたが、128年ぶりに郵便業務を再開、2012年再びオープンしました。再スタートを切った郵征総局ですが、現在、建物内部は郵政史料展示スペースと郵便業務スペースの二つに分かれています。現在の郵征総局の建物は史跡第213号に指定された建物のため、簡単な郵便業務のみを取り扱っています。 * 面積 - 2,588平方メートル


慶尚北道(浦項市 )

2014年1月に竣工した「浦項運河(ポハンウナ)」は、浦項市松島洞と竹島1洞の間にあるトンビン大橋と兄山江を南北につなぐ全長1.3キロメートル水路です。昔の水路と生態環境を復元し、市民のための公園とすると同時に新たな観光スポットとして誕生し、多くの人々がクルーズ船に乗ったり、水路に沿って散歩を楽しんだりしています。 浦項運河はもともとあった水路を復元し、昔の姿を取り戻すことで自然と運河がつくられました。国家的な変革期にあった1960年代末、浦項が都市化し、浦項製鉄建設のためにトンビン内港と兄山江をつなぐ小さな水路を埋め立てて商業エリアと住居エリアを設けました。最近、これを復元し、再度水路を開き、周辺を整備して浦項運河と遊園地を設けた他、その横には市民のための散歩道とサイクリングロードをつくりました。 水路復元時、そこを基盤に暮していた住民や商人の協力が大きな役目を果たしたとして、運河の始点にある浦項運河館には住民と商人の名前が壁に刻まれています。


忠清北道(沃川郡 )

忠北沃川郡沃川邑には、ヒャンス100里キルの最後の場所「陸英修生家」があります。陸英修女史が幼少時代を過ごした家が崩れかけたまま残されていたのを改修し、2011年5月、一般に公開しました。この家は1600年代の官僚金氏が建てた家で、その後2人の官僚が暮らしたとし「三宰相の家」と呼ばれていました。 陸英修女史が生まれる前の1918年、陸鍾寬氏がこの家を買い取り、暮らすようになりました。朝鮮後期の典型的な忠清道両班家の家屋と言えます。


仁川(西区) , 仁川市街地

仁川を簡単かつ便利に旅行する方法、仁川市観光案内所を利用しましょう! 仁川を訪れる際、旅行をスムーズで快適にする最良の方法の一つは、仁川市観光案内所を利用することです。仁川市は市内に10か所の観光案内所を運営しており、旅行者に必要な情報やサービスを提供しています。 これらの観光案内所では、多言語対応の観光ガイドやパンフレットを提供しており、日本語、韓国語、英語、中国語で書かれた資料を揃えています。これにより、言語の壁を感じることなく情報を入手できます。 仁川国際空港の観光案内所は、年中無休で午前7時から午後10時まで営業しており、旅行者にとって非常に便利です。他の観光案内所は、韓国の祝日(旧正月・秋夕(チュソク)の連休)を除いて午前9時から午後6時まで営業しています。 各観光案内所では、外国人観光客に対して親切で詳しい観光地の説明を行っています。仁川を訪れる際には、観光案内所に立ち寄って最新の観光スポット情報や多様なサービスを利用し、より便利で充実した旅行を楽しんでください。 観光案内所では、文化体験、歴史的名所、ショッピングスポット、食事のおすすめなど、あなたの興味に合わせた情報を提供します。これにより、旅の計画が立てやすくなり、仁川での滞在がさらに楽しいものになるでしょう。 仁川を訪れた際には、必ず仁川市観光案内所に立ち寄りましょう。貴重な情報やサービスを得ることで、便利で楽しい旅行を実現できます。仁川の魅力を存分に味わい、素晴らしい思い出を作る旅のスタートはここからです! 仁川観光案内所のリソースと専門知識を活用して、ストレスのない仁川の冒険を楽しんでください。仁川のすべてを発見する旅が、ここから始まります!


京畿道(坡州市 ) , 坡州(ヘイリ村)

臨津閣(イムジンガク)広場前の望拝壇(マンベダン)後方にある橋・自由の橋(チャユエタリ)。 1953年、韓国戦争(1950~1953年・休戦)で捕虜となった1万2,773人がこの橋を渡り南側へ帰還したことから、「自由の橋」と言われています。 元々ソウルと新義州(シニジュ)を結ぶ京義線(キョンイソン)の鉄橋で、上下それぞれ1本ずつの橋がありましたが、韓国戦争中の爆撃により破壊され、橋脚のみ残っている状態でした。 北に捕らえられた戦争捕虜を帰還させるため、臨津江(イムジンガン)下流(西)側の下り線にあった橋の橋脚に橋桁を架け、橋板を置いて復旧させ、この仮設の橋を完成させました。 当時、捕虜らは車で京義線のこの橋の北端までやってきて、歩いてこの橋を渡って南側へ戻ってきたといいます。 自由の橋は全長83m、幅4.5m、高さおよそ8mの規模を誇る橋です。 自由の橋は当時、木材を組んで造りましたが、特に荷重がかかる部分は鉄材も使いながら造りました。 仮設の橋であったため、建築的観点からはあまり素晴らしい点はありませんが、「自由への帰還」という象徴的な意味において、韓国戦争を代表する戦争遺産と言えるべき橋です。 以前は外国人向け板門店(パンムンジョム)ツアーのバスがこの橋を通過して板門店に向かうなどしていましたが、現在では再び鉄道橋として復活し、線路が敷設され、川向こうの都羅山(トラサン)駅まで行くことができます。


忠清南道(舒川郡 )

韓山素麯酒(ハンサン・ソゴクチュ)は忠清南道(チュンチョンナムド)舒川郡(ソチョングン)韓山面で醸造・生産されるおよそ1500年あまりの伝統を受け継いでいる韓国伝統酒です。 素麯酒という名称ですが、麹を細かく砕き醸造する酒ということから、別名・小麹酒(ソグクチュ)とも呼ばれています。味の深み、そして香りが大変素晴らしく、一度口につければその場を離れられないほどのおいしさということで、又の名を座客酒(アンジュンペンイスル)とも言われています。 素麯酒は元々、百済時代の宮中で飲まれた酒で、百済が滅亡した後、百済の遺民らがその憂さを晴らすために、韓山面乾止山(コンジサン)の周留城(チュリュソン)に集結、百済の宮中酒であった素麯酒を作り、飲んだと伝えられています。それ以来、韓山地域が素麯酒の発祥となり、韓山素麯酒と称されるようになりました。 この他、『醸酒方』、『東国歳時記』、『閨閤叢書』、『飲食知味方』、『林園十六志』などさまざまな飲食に関連した文献に記録されている酒としても有名です。


ソウル(西大門区) , 新村・梨大

延世大学校で最初に建てられた建物で、1919年着工、1920年に竣工した石造2階建ての建物です。 延世大学校の前身である延禧専門学校設立者アンダーウッド(韓国名・元杜尤/ウォン・ドゥウ)牧師が故郷・米国へ帰国し恒久的な学校建築のためアメリカロサンゼルスに居住していたチャールズ・スティムソンの寄付を得ましたがその後逝去、後任の校長エビソンがその意志を引き継ぎ、その寄付金を元に建設しました。 建設開始時には未亡人となったアンダーウッドの妻が礎石を置き、当時の化学科教授・ミラーが工事の監督を行ないました。 設計は未詳とされていますが当時の米国人建築家らが来韓し設計及び基本計画を作成したといわれています。外観は南北に細長い形をした切妻屋根のゴシック様式の建物となっています。


慶尚南道(統営市 )

統営8景「小毎勿島(ソメムルド)から見渡す灯台島の奇岩怪石と叢石断崖が特に絶景で引き潮の時は、この2点が繋がり渡れるようになります。龍の岩、釈迦の岩、亀の岩、燭台の岩は大自然の傑作品です。見どころを挙げると、灯台島から小毎勿島を見渡すと奇岩怪石としてなっている岩全体が巨大な恐竜が座った形象もあります。 昔の近隣や部落ではそば(メムル)を多く生産していたと呼ばれた地名(1934年刊行の統営郡誌では「メミド」となっています)でしたが、そばの側にある小さい島という意味で「小毎勿島」となりました。1904年金海金氏が島に行き、飢えないという言葉を聞き、ここに移住し定住し、村を開拓しました。島の形が素晴らしく、毎年観光客の足が絶えません。 ※ 文化観光部主管 行きたい島示範事業 * 島構成 : 本島1、付属島2 * 面積 : 330,000㎡(付属島を含めた面積) * 人口 : 37人


忠清北道(清州市 )

世宗大王が治療のため訪れた椒井薬水清州から東北側に約16kmの地点に位置する椒井薬水(チョジョンヤクス)は世界3大鉱泉水の1つです。約600年前に発見され、『東国輿地勝覧』第15巻と『朝鮮王朝実録』第103巻に由来が記載されています。舌にピリッとした刺激が感じられる、冷たい天然炭酸水が湧出する霊泉で、早くから全国的に知られており、また、世宗大王が60日間ここに留まり、眼病を治療したということも伝えられています。1日の湧出量は約358トンほどで、この水を利用した天然飲料水が製造・販売されており、現在この地域では2ヶ所の薬水飲料工場があります。椒井薬水の効能椒井薬水の卓越した効能は水に含まれている大量のラジウム成分のためであると推測されており、これは眼病だけでなく、皮膚病にも効果が高いといわれています。椒井薬水は世界鉱泉学会からアメリカのシャスタ、イギリスのナポリナスとともに世界3大鉱泉水の1つに選ばれています。また椒井薬水は600年以上の歴史を持つ世界的な鉱泉水(F.D.A.認定)です。