江原道(春川市) , 春川

江原道春川市孝子洞にあるモムジッ(身振り)劇場は、地下1階、地上3階、総面積1千500㎡規模を誇る劇場です。150席の劇場ホールや練習室、楽屋等を完備しており、マイムだけでなく国楽、舞踊、演劇など幅広いジャンルの上演専門スペースです。「ひとりの身振り(モムジッ)が世の中を変える」という意味の「祝祭劇場モムジッ」では、身体、動き、イメージでパフォーマンスする舞台芸術家と観客が思う存分楽しみ、表現し、共感し合うことができます。


ソウル(江西区) , ソウル西部

許家岩という天然の岩の洞窟一帯に造られた公園が亀岩公園です。この岩から陽川許氏の始祖である許宣文が生まれたとされています。亀岩公園は医聖と呼ばれる許浚の記念公園で、許浚が広津で退いてから、かの有名な東医宝鑑を執筆した場所でもあり、許家岩の洞窟がある場所です。亀岩公園にはオリンピック大路の建設によってできた湖があり、その周りを屏風のようにアパートが高く建ち並んでいます。この場所には許浚が患者を治療する慈愛に満ちている姿の銅像があります。一方、美しい湖ができる前までは、ここは漢江の下流を渡る孔岩の渡し場であり、その横には20人余りが十分に入ることのできる岩の洞窟がありました。戦争の際には多くの人達の避難場所となりました。この一帯の最初の地名である「斎次巴衣」とは漢城百済の頃の大地の神と穀物の神に祭祀を行った岩という意味があります。


江原道(寧越郡) , 平昌

荘陵は、朝鮮第6代王であった端宗の陵墓です。端宗は、その叔父である首陽大君に王位を奪われた後、清冷浦に流され17歳の時に生涯を終え、その死体は東江に捨てられました。後難を恐れて誰も死体の処理をしませんでしたが、寧越戸長の厳興道が死体を荘陵まで運びました。粛宗の時代である1698年になり、端宗が再び王の座に戻り、王陵に埋葬され、死後の贈り物としての陵号が荘陵となりました。荘陵の周囲にある松の木は、全て陵墓に向かってお礼をするように曲がっており、その様子に圧倒されます。毎年4月の最後の週末には端宗文化祭が盛大に開催され、特に朝鮮時代の再現イベントでは1000人を超えるが参加する大規模な行事です。2009年6月30日に荘陵を含む朝鮮王陵40基がユネスコ世界遺産に登録されました。 


済州道(済州市 ) , 구 제주

1980年オープンした「細花海水浴場(セファヘスヨクチャン)」は幅30~40メートルの海水浴場が200メートルほど広がっています。規模はあまり大きくありませんが、コバルトブルーの海が美しいところです。近くに細花邑が位置しており、各種宿泊施設などが整っています。 その他、近隣には文珠蘭(ハマユウ)の自生地「蘭島」、歴史遺産「別防鎮」、石の公園「石茶園」があります。 規模 長さ1キロメートル 幅30~40メートル 傾斜度5度 平均水深1~2メートル


仁川(江華郡) , 江華島

朝鮮第25代目の王である哲宗(在位1849∼1863)が王位に就く前に住んでいた家で哲宗が王位に就くと江華留守の鄭基世が新しく建物を建て、龍興宮と名づけました。龍興宮は昌徳宮の演慶堂と楽善斎と同じように生活空間として造られたので素朴な感じのする建物です。境内には哲宗が住んでいた昔の家であるのを示す碑石と碑閣があります。


江原道(江陵市)

「アラ」とは海という意味の純韓国語で、美しい海の上を蝶(韓国語で「ナビ」)のように飛ぶという意味があります。12メートルの高さのタワーから419メートルの美しい海の上を滑車で滑り、海岸の絶景を観賞する国内唯一のスカイ漁村体験です。オールシーズン誰でも楽しめ、現在アメリカやオーストラリア、ヨーロッパなど世界中からエコツアーとして爆発的な人気を博しています。特許実用新案を出願した2件の安全システム、交通安全公団の施設安全検査にパスし、営業賠償責任保険にも加入しているため、安全かつ安心して楽しめます。


慶尚北道(安東市 )

安東民俗村(アンドン・ミンソクチョン)は安東民俗博物館の野外博物館で、安東ダム建設で水没した地域から移された茅葺の家や韓屋(瓦屋)などの文化財があります。 民俗村の入り口には二つの大きな長承(丸太に人の顔をこっけいに彫ったもの)があり、その横には安東出身の有名な詩人李陸史(1904-1944)の詩碑があります。詩碑には代表作「広野」が刻まれていて、詩碑の後ろに続く坂を進むとドラマ「太祖王建」の撮影地があり、撮影に使われている高麗時代の役所、牢獄、民家など20数件の建物があります。慶尚北道聞慶と忠清北道堤川から慶尚北道安東にかけての一帯がドラマの撮影地として選ばれたのには歴史的な背景があります。安東の豪族たちは王建(高麗の初代王、在位918-943)が高麗(AD918-1392)を建国するにあたり彼を支持したのです。 安東民俗村の近くには安東民俗博物館、ドラマ「太祖王建」の撮影地、安東湖などがあります。これらをじっくりと見るなら半日ほどかかるでしょう。


忠清南道(公州市 )

公山城(コンサンソン)は、百済時代の文周王1年(475)に、漢山城から熊津に首都を移した後、聖王16年(538)に首都を扶余に移すまでの5代64年の間、都である公州を守るために建てられた城です。史跡第12号である公山城は全長2,660mの巨大な城郭で、海抜110mの稜線に位置しています。東西に約800m、南北に約400mの長方形の形をしています。元々は、百済時代の土城だった公山城ですが、朝鮮時代に現在の石城に改築されました。城内には、百済時代の池が2ヶ所、高麗時代に立てられた霊隠寺、朝鮮時代の仁祖王が李适の乱を逃れ一時避難していた双樹亭(サンスジョン)や史跡碑、南門である鎮南楼、北門である光復楼などが残っています。東門と西門は、最近復元されたもので、この周辺を流れる錦江(クムガン)や、鬱蒼とした森が調和し、絶景が広がっています。家族や恋人同士で錦江を眺めながらゆっくりと散歩を楽しめる城壁の道や、木が生い茂った森にも散策路があります。


京畿道(華城市) , 水原

  隆陵 隆陵は朝鮮第22代正祖の父である莊祖(1735-1762)とその妃、獻敬王后(1735-1815)洪氏の合葬陵です。莊祖は朝鮮21代英祖の2番目の息子であり、1736年(英祖12年)に皇太子となりました。さまざまな方面において皇太子としての優れた面貌を備えていましたが、1762年に父・英祖の命令で米びつの中に監禁され亡くなりました。莊祖の陵は元は京畿道楊州郡拜峰山にありましたが、彼の息子・正祖が即位すると華城の華山に移し顯隆園としました。後に莊祖として追尊され現在の位置に墓を移した後、陵号(墓の名前)を隆陵としました。獻敬王后は1744年に皇太子の妻となりました。夫が非業の死を遂げた後、還暦を迎えた1795年、甥・洪守栄の願いで莊祖の惨事を中心にした自伝的回顧録「閑中錄」を残しました。資料的価値の高い「閑中錄」は「仁顯王后伝」とともに宮中文学の双へきを成しています。京畿道華城市安寧洞にある隆陵は、皇太子の墓である本来の形式に木蓮と蓮の模様を刻んだ屛風石を設置し、上界空間と下界空間に分けて空間を王陵のように作りました。上界には陵、魂遊石(魂が出てきて遊ぶようにした石という意味で、王陵の封墳の前に置かれた四角形の石)、 望柱石(墓の前の両側に造られた一対の石柱)が配置されており、下界には文人石(長明燈の左右にある文官の形をした石)、石馬(石で造った馬)が配置されています。健陵健陵は正祖(在位:1776-1800, 1752-1800)と彼の妃の孝懿王后(1753-1821)金氏の墓です。 正祖の遺言に従い父の陵である隆陵から近い場所に安葬されました。莊祖と獻敬王后(惠慶宮 洪氏)の2番目の息子であり、1959年(英祖35年)、8歳で皇太子の長男となりました。党争の渦の中王位についた正祖は、在位24年の間蕩平策(党争の弊害をなくすために各党派で人材を登用した政策)を実施して国を治め、王室の図書館である奎章閣を設置し、学問の研究に大きな業績を残しました。彼の妃である孝懿王后は金時黙の娘で1762年、10歳で皇太子の長男の妻になりました。1776年に正祖が即位し王妃となりました。一生をつつましく暮らし、1821年(純祖21年)に昌慶宮慈慶殿にて69歳でなくなりました。健陵は合葬陵で隆陵の例に従いましたが、屛風石(封墳を保護するために 封墳の下の部分を囲んだ石)を巡らせた点を除けばほとんど隆陵の構成と似ています。 健陵や隆陵とともに同一史跡に指定されました  


済州道(西帰浦市)

薬泉寺(ヤクチョンサ)は、済州特別自治道西帰浦市大浦洞にあり、自分自身を見つめなおしながら伝統文化を体験できるテンプルステイプログラムを運営しています。お寺での礼儀作法を学んだり、礼仏、参禅、行禅などの基本プログラムや、お寺での日常修行生活を体験してみることができます。