慶尚北道(聞慶市 )

仙遊洞溪谷(ソニュドン・ケゴク)は古い松と岩壁が調和をなしている九つの曲がった溪谷で仙遊九曲と呼ばれています。 溪谷の巨大な岩石は自然に重なったものだがわざわざ積み重ねたもののように感じられます。昔 神仙が降りてきて遊んだこの溪谷は白い岩盤が河川の底をなし、並んだ 岩壁の間を澄んだ水が四季を通じて流れています。水流が巨大な岩石の上を流れる美しい風景を作っています。 仙遊洞 下流には七愚亭が建てられていて1927年この地域出身の愚隱, 愚石 等 愚字の号を持つ7人の志を合わせて建てた亭子です。.亭子の名前は朝鮮 義親王(1877~1955)が付けたという説もあります。この渓谷に沿って行くと時々亭子も見え岩に字が書かれているのも見ることが出来ます。それ程この渓谷の美しさが人々から愛されてきたためです。


慶尚北道(盈徳郡 )

「コレブル海水浴場(コレブルヘスヨクチャン)」は、盈徳から北側に24キロメートルを中心とした寧海面の大津海水浴場に近い海水浴場で、鬱蒼とした松林に囲まれています。黄金色の砂粒は大きく、体につかないため、昔からここで砂風呂をすると心臓や循環器系の疾患に効果があるといわれています。砂浜が8キロメートルにもなることから、大津海水浴場とともに東海の名所20里と呼ばれています。長く白い砂浜、浅い水深、きれいなエメラルド色の海、鬱蒼とした松林がつくる涼しい日陰は、家族で楽しむ避暑地として最適です。また、海水浴場内には、シャワー室、トイレ、給水場、売店、駐車場などの便利な施設も揃っています。


ソウル(瑞草区) , 江南・三成(COEX)

別別演戱は演戯団体「ユニ」が行う伝統演戯を基盤に新しい音楽とパフォーマンスを取り入れ現在風にアレンジした公演です。伝統人形劇から始まり、仮面劇、打楽器パフォーマンス、綱渡りなどで構成されています。国楽界のアイドルと言われるユニの若い演奏者たちのエネルギー溢れる打楽器演奏と演戯は息がぴったりと合い観ている人を魅了します。


京畿道(漣川郡)

「台風展望台(テプンジョンマンデ)」はソウルから約65キロメートル、平壌から約140キロメートル離れた漣川郡中面ピキ山の最高峰スリ峰にある韓国軍の展望台で1991年12月3日に陸軍の台風部隊で開館しました。初めは軍事境界線から2キロメートル地点に南方限界線と北方限界線が設定されていましたが、1968年に北韓(北朝鮮)が休戦線の近くに鉄柵を設置したため、韓国側も1978年に部分的に鉄柵を設置しました。台風展望台は休戦線まで800メートル、北韓の哨所までは1,600メートルの距離にあり、155マイルの休戦線上、北韓と最も近い展望台として有名です。また、台風展望台には、国軍将兵が宗教集会などを行うための宗教施設がある他、北側が故郷の失郷民の望郷碑や戦跡碑などが建てられている他、展示館には北韓の生活必需品や日用品、武装スパイの装備などが展示されています。    


京畿道(加平郡) , 南楊州

恋人山は龍湫の滝の源泉でもあり、海抜1,068メートルの柔らかな土からなる美しい山です。この山に登ってお願いをすると、恋が叶うと言われています。 恋人山は肥沃な土でできているため、たくさんの木や花が育ち、春には様々な野生の花が咲きます。この恋人山や明智山、清渓山、鬼木峰からなる地域は、キャンプや炊事などが禁止されている場所で、汚染もなく綺麗なところです。これらすべてが1,000メートルを越える山々で、道馬峰から雲岳山までの連なりが美しいところです。その中に恋人山道立公園があります。 春前線とともに、5月の下旬頃に咲き乱れるクロフネツツジは、恋人山を代表する景観の一つです。毎年5月下旬になると、加平郡では「恋人山祭り」が開かれます。 恋人山の主な登山コースには柏屯里(地名)から登るコース、馬日里から登るコース、龍湫渓谷に沿って登るコース(12キロ)の3つがあります。春にはクロフネツツジ、秋には紅葉で色づく美しい景色の中で、静かで落ち着いた登山を楽しむことができます。


忠清南道(泰安郡 )

泰安郡南面に位置する磨剣浦海岸は安眠島に続く橋の前にある海水浴場で、まだ多くの人に知られておらず静かな海岸です。周辺には松林があり、キャンプをすることも出来ます。傾斜が穏やかなため、こどもの海水浴にも安全です。


ソウル(鍾路区) , 大学路・城北洞

韓国式洋食レストランです。代表的なメニューは手作りロースカツです。この店はソウル特別市のテハンノに位置した和食専門店です。


全羅北道(高敞郡 )

パンソリの集大成、国文学史に関して優れた功績を残した桐里申在孝(1812~1884)の古宅です。パンソリ博物館のすぐ後ろにあり、裏庭は桐里国楽団(桐里は申在孝の号)と牟陽城(倭寇の侵入に備え、1453年に建てられた自然石の城郭。別名高敞邑城)に当たります。重要民俗資料第39号に指定されている申在孝の古宅は1850年頃に建てられ、現在全面5間、側面2間の規模となっておりサランチェと桐の木、井戸などが残っています。


全羅南道(海南郡 )

418年前、13隻の李瞬臣将軍の水軍は、南海で勝利を収めて西海を回って漢陽に進出しようとしていた日本の水軍133隻を鬱陶項(ウルドルモク)で撃破し、大勝を収めました。この勝利の隠れた主役は、漁船と食料を自ら持って馳せ参じ、李瞬臣将軍の水軍を助け、ともに戦った全羅道の民衆たちであり、その勝利は鳴梁大捷(ミョンニャンデチョプ)と呼ばれています。鳴梁大捷は壬辰倭乱(文禄・慶長の役)を終息させ、危機に瀕していた国を救う決定的なきっかけとなりました。その後全羅南道では、鳴梁海戦の勝利を記念して、李瞬臣将軍と全羅道の民衆たちの救国精神を称える「鳴梁大捷祭り(ミョンニャンデチョプチュッチェ)」を開催しています。