慶尚北道(金泉市 )

慶尚北道、金泉に2010年6月19日にオープンした東洋最大規模の化石博物館である「インドン化石博物館」は、室内外の展示室に隕石、花、果物、動物、木、貝などの化石だけでなく、今まで見ることすらできなかった最大化石やさまざまな化石、柱状節理(主に溶岩が固まってできた化石で断面が長い六角形または三角形で長い柱の形をしているもの)他にも水中生態館、モンゴル体験館、貴重な寿石や庭園石など多様な見どころがあります。 化石は、インドネシア、マレーシア、中国、ブラジルなどを始め世界各国で発掘されたもので、その中に600トンにおよぶ柱状節理や長さ55mの木の化石が展示され、地域の観光名所となることが期待されています。 この「インドン化石博物館」は、野外展示場もあり化石を単純に目で楽しむだけでなく、実際に触って体験できるようになっています。またすべての建築物は、木材を使用しているため自然にやさしく観覧客が気軽に過ごせるように配慮され、池をはさんだ庭園の横にはお茶を飲みながら話ができるスペースが用意され、さらに良い環境になっています。


全羅北道(益山市 )

登録文化財第211号 益山 春浦里 旧日本人(細川)農場家屋 益山春浦里 旧日本人(細川)農場家屋は、全羅北道(チョルラプクド)益山市(イクサンシ)春浦面(チュンポミョン)春浦里にある日本人が所有していた旧農場の家屋です。 この農場家屋は2005年11月11日に登録文化財第211号に指定され、現在ではアン・サムギル氏の所有となっています。益山春浦里旧日本人農場家屋は1940年代に農場内に建てられた二階建ての木造家屋です。 建築面積106.78平方メートルの日本式の木造家屋で、全羅北道地域を代表する大規模農場・細川農場内にあった建物です。当時のこの建物は細川護熙元日本国内閣総理大臣の祖父・細川護立が所有しており、日本人の小作管理人が住んでいました。全羅北道が農業収奪地域であった当時の春浦の状況が垣間見れる建物となっています。 建物1階は正方形に近い平面となっており、「フ」の字型となった廊下に沿って部屋が配置されています。2階には外の景色が眺められるようバルコニーのように突出した作りの部分もあり、特徴的な外観となっています。 建物の屋根は日本式の瓦屋根葺きの入母屋屋根となっており、外壁は板張りとなっています。 建物内部はその後韓国人が居住しリモデリングされましたが、現在は空き家となっています。 玄関に入ると、すぐ2階へ上がる階段があります。階段の真横には廊下があります。1階は建築当時は畳部屋となっていましたが、その後オンドル部屋となり、また仕切り壁も取っ払われるなど大規模な改築がなされました。 しかし、2階部分は建築当時の広々とした畳部屋が残っており、また押入れや床の間も当時そのままに残っています。部屋の手前にはバルコニーのような空間があり、鉄製の欄干を設けています。 益山春浦里旧日本人農場家屋は当時のこの地域の近現代史の一端を垣間見ることができる建物で、一部修理や改築は行われましたが、全体的には原型を留め、郷土史的、居住史的、建築的観点からも重要な価値を持つ建物と言えます。


全羅南道(順天市 )

品質の良い韓牛が味わえて、お集まりに最適な店です。おすすめは霜降り牛ロースです。全羅南道のスンチョン市に位置した韓食専門店です。


慶尚北道(高霊郡 )

ケシル村営農法人・徳洞宅(トクトンテク)は、芝の庭や気品ある韓屋が調和をなし、風情ある雰囲気を醸し出す韓屋宿泊施設です。 敷地入口にある大きな木造の大門を開き、敷地へ足を踏み入れると、青々とした芝生が広がり、その後ろには「一」の字型をした韓屋が建っています。客室は全2室で、梅室は2名様から3名様、竹室は3名様から5名様までお泊りいただけます。淡いトーンの韓紙の壁紙で仕上げた客室にはテレビや冷蔵庫、エアコン、インターネット、洗面用具などを完備し、くつろいでお泊りいただけます。 竹室には炊事用品も用意しており、料理も可能で、広々とした中庭ではバーベキューもお楽しみいただけます。 徳洞宅があるケシル村は朝鮮時代前期の文臣であり学者であった金宗直(キム・ジョンジク)先生の子孫が集まり形成した善山金氏(ソンサン・キムシ)の集姓村です。村内には民俗資料62号に指定され朝鮮時代に起きた士林の四大惨禍のひとつで戌午士禍(1498年)のとき災いを被った金宗直先生の宗宅(本家)や文化財資料第111号の道淵斎(トヨンジェ)などがあります。 近隣には大伽倻博物館にある金宗直先生記念室には有形文化財第209号の佔畢斎文籍遺品が展示されています。花が咲く美しい谷ということで開花室とも呼ばれるこの地ですが、その背後に花が満開となる花開山(ファゲサン)や350年前からあるという竹林、そして蝶が羽を休める形に似ていることから名付けられた蝶舞峰(チョンムボン)などが村の周囲を温かく包み込んでいます。村の八割以上の人々が伝統韓屋を保存・維持しており、韓屋の瓦屋根の曲線は村の暖かな風情と調和しています。 この村は2001年に行われた美しい村作り事業や2005年農村体験村造成事業を通じて、現在の姿に生まれ変わりました。事業では村に元々からあった古い家屋を補修・新たに建築したり、土で固めた石塀や散策路の造成、そして細部にいたるまで造景し、より風情ある村づくりに努めました。他にも住民や訪問される方々が便利に楽しめるよう村の休憩所や体験館、インターネットカフェなども開設しました。ケシル村は住民みながともに力を出し合い、村を活気づける代表的な例としてその成果を認められ、2011年には大韓民国農漁村マウル大賞において大統領表彰を受けたこともあります。 2003年には農協ファームステイ村としても指定され、自然と伝統を生かした様々な体験プログラムも実施しています。サツマイモ掘り、田植えなどができる「農業体験」、礼節教育と伝統茶の試飲を行う「伝統教育体験」、凧や藁工芸などにチャレンジできる「ものづくり体験」、飴や油菓などを作る「伝統飲食体験」、ブランコや板跳びなど村の広場で楽しむ「伝統遊び体験」、ドジョウ掬いや氷上そりが楽しめる「自然体験」などがあります。 このように季節ごとに自然の美しさやさまざまな伝統を活かし盛りだくさんの体験プログラムを実施しているケシル村は代表的なファームステイ村としての地位を確立し、毎年5、6万人の観光客が訪れる名所となりました。 伝統韓屋体験や様々な楽しみがあるケシル村で古きよき田舎の情緒を体験してみるのはいかがでしょうか。


慶尚南道(統営市 )

李仲燮居住地は、慶尚南道(キョンサンナムド)統営市(トンヨンシ)港南洞(ハンナムドン)の文化マダンのそばの路地にある、韓国を代表する近代西洋画家・李仲燮(イ・チュンソプ=1916~1956年)が居住していた家屋です。現在でも居住している人がいる現役の建物ですが、日本式家屋の形態と構造をそのまま残す家屋として、現在もこの地に建っています。


忠清南道(牙山市 )

李承晩初代韓国大統領退陣・亡命後、内閣責任制の下で1960年第4代大統領に就任した尹潽善(ユン・ボソン)大統領の生家です。 この家は尹潽善大統領の父親である尹致昭(ユン・チソ)が1907年に建てたものとされていますが、外側の居間のある建物はその造りから1920年代に建てられたものと思われます。


京畿道(始興市)

烏耳島(オイド)は、元々、京畿道(キョンギド)始興市(シフンシ)の陸地から4km離れた沖に浮かぶ南北に長い島でしたが、1932年に干潟を塩田開発したことで陸続きとなり、1980年代末に始華(シファ)工業団地が造成されてからは、完全に埋立てられました。 近くには観光スポットとしても有名な済扶島(チェブド)、大阜島(テブド)、蘇莱浦口(ソレポグ)などがあります。 烏耳島遺跡は烏耳島の小高い山頂を中心にその麓付近に分布しています。烏耳島にある軍の駐屯地内でも数多くの貝塚の痕跡があり、また駐屯地内の山頂付近には仁川(インチョン)と狼煙のやりとりを行った烽燧台(狼煙台)も残っています。 この他、烏耳島には多数の貝塚も発見され、烏耳島全体に遺跡が点在していることが分かりました。新石器時代から統一新羅時代に至るまで人々が暮らしを営んでいたことが確認されている烏耳島。発掘された住居跡、オンドルの遺構などから出土した土器のかけら、石器、 漁網の重りなどは、韓国の沿岸地域の人々の当時の生活ぶりや、韓半島の西に広がる西海(ソヘ)沿岸の文化を研究する上で貴重な資料となっています。 烏耳島遺跡は韓国の西海沿岸の島しょ地域を代表する遺跡で、中でも統一新羅時代の住居跡は烏耳島地域で初めて発見されたもので、当時の居住形態やオンドルの発展過程を理解する上で、大変学術価値が高いものと評価されています。 <出典:文化財庁国家文化遺産ポータルサイト>


仁川(甕津郡)

西海(ソヘ)最北端の島・白翎島(ペンニョンド)の龍機院山(ヨンギウォンサン)にある国土クッソム(最果ての島)展望台。この展望台からは双眼鏡で北韓国の島々や陸地を眺めることができます。また山の頂にあることから、左手には新港や沙串(サゴッツ)海岸、右手にはハニ海岸など白翎島の隅々までよく見えます。


慶尚北道(安東市 )

河回(ハフェ)村の中にある「安東(アンドン)河回養真堂(ヤンジンダン)」は、宝物第306号に指定されている豊山(プンサン)柳氏の大宗家です。 柳仲郢(リュ・ジュンヨン、1515~1573年、雅号は立巖)の雅号にちなんで、立巖(イバム)故宅という扁額が掲げられています。養真堂という名称は、柳仲郢の息子である柳雲龍(リュ・ウンリョン、雅号は謙菴)の6代後の子孫にあたる柳泳(リュ・ヨン、1687~1761年)の雅号にちなんだものです。「己の本性を養う」という意味です。ソスル大門(屋根が一段高く作られた門)をくぐると堂々たる構えの韓屋が見えてきますが、よく磨き上げられたテチョンマル(板の間)などを見ていると、心が和んできます。高麗時代の建築様式を持つサランチェ(客間)と、朝鮮時代の建築様式を持つアンチェ(母屋)が共存していることが、養真堂の特長のひとつです。壬辰倭乱を経て建物の補修を行ったため、二つの時代の建築様式を併せ持つようになったと言われています。長い歴史が刻まれた故宅が今日まで守られてきたことに、ありがたみを感じます。手入れの行き届いた庭園からは、子孫たちがこの場所をいかに大切にしてきたかが感じられます。威厳のある外観とは打って変わって、客室の内装はシンプルで質素です。長い間大切にされてきたと思われる伝統的な螺鈿細工のたんすや、棚いっぱいに重ねられた食器、所々に置かれた陶磁器に目を引かれます。まるで、小さな民俗博物館のようです。滞在中は、ぜひ伝統遊びもお楽しみください。ユンノリ、投壷、チェギチャギ、コマ回し、凧揚げなどができます。時期によっては、宗婦(直系子孫の妻)から自家製の酒造りや、餅・らくがん・花果茶作りなどを教わる体験プログラムが開かれます。


京畿道(坡州市 )

スカイウォーク「明日の奇跡の音」は韓国分断の歴史的シンボルで臨津江(イムジンガン)に架かっていた京義線の複線の鉄橋「トッケタリ」の片側を復元し作ったものです。6・25戦争(韓国戦争・1950-1953)時の爆撃によって鉄橋は破壊されましたが、片一方は後に道路橋として改修され捕虜交換の際や板門店へ繋がる橋として利用された「自由の橋」(現在は再び鉄道の鉄橋として利用)、そしてもう一方の破壊された鉄橋の残った5つの鉄橋の橋脚を基礎に長さ105m、幅5mの戦争前の鉄橋の一部を再現しました。2層構造で過去と現在、未来のエリアに分けて構成されています。民間人統制線(民統線)内に位置していますが、特段の許可なしに出入りすることができる唯一の施設です。