慶尚南道(陜川郡 )

通度寺や松広寺とともに韓国の3大寺院の一つである海印寺は、802年に建てられたと伝えられています。現在寺院の中には大小の多くの仏殿がありますが、ほとんどは最近になって建てられたもので、蔵経板殿のみ唯一朝鮮初期に建てられた形態そのままで残っています。蔵経板殿は13世紀に造られた文化遺産、8万枚余りの高麗大蔵経板が保管されている木造の建物です。同じ規模や形態を持つ二つの建物が南北に並んで建っており、南側の建物を「修多羅殿」、北側の建物を「法宝殿」と呼んでいます。華やかな装飾や色づけをせず、大蔵経板を保管するための最小の機能のみを備えているのが特徴です。通気性がよいため湿気に強く、室内温度の適正に保たれた技術が科学的にも優れるこの建物は、現在まで八万大蔵経板が無事に保存されてきた重要な役割を果たしてきました。蔵経板殿の正確な建立時期はわかっていませんが、1488年、朝鮮世祖の命で建てられ、その後一度も火災や戦争の被害に遭っていないものとされています。世界唯一の大蔵経板の保管用の建物として、建物自体の美しさだけでなく、隠された科学的な技術が認められ、1995年に世界文化遺産に登載されました。 


済州道(西帰浦市)

済州島最高の自然環境、山房山と龍頭海岸のある場所でオフロード体験をすることができます。


大邱広域市(西区)

大邱ホテルは、5分のところにE-WORLDや頭流タワー、頭流公園、野外音楽堂など様々な文化施設があります。また、ヨーロッパ風の客室、韓国式のオンドル部屋があり、宿泊客はジムやサウナを無料で利用できます。ホテル内には結婚式場、宴会場、セミナー室などの付帯施設があります。2階のダイアモンドホールと10階のクリスタルホールは最新の映像、音響施設が備えられた結婚式場です。


光州広域市(東区)

20年あまりの伝統を誇るクムス荘観光ホテルは、東区桂林洞(旧市庁桂林洞庁舍前)にあり、光州駅から徒歩約10分という便利な立地条件を揃えた実用的で充実した「料理専門ビジネスホテル」です。


慶尚北道(聞慶市 )

聞慶(ムンギョン)陶磁器の価値が年々注目を浴びてきています。それは陶芸家個人の技能ももちろんですが、その技能の底辺に聞慶陶磁器の特徴と言える歴史と伝統があるからです。聞慶には重要無形文化財「沙器匠(サギジャン)」と技能人最高の栄誉である陶芸部分の名匠がいます。聞慶は朝鮮王朝初期に粉青沙器という器の陶窯地として有名な場所でした。聞慶陶磁器にはいまだ昔の陶工たちの魂がそのままこもっており、民族の純朴な心が深く染みついていて色彩や形が自然で美しいと言われています。


江原道(春川市) , 春川

衣岩湖が眺められるベニキア春川ベアーズホテルは、春川地域で最も景観が良いリゾートホテルで、周辺では昭陽江多目的ダム、清平寺、三岳山、江村遊園地、九谷瀑布、中島遊園地などが観光ベルト化されていて、釣り、モーターボート、ゴルフ、山登り、水上スキーなどのレジャースポーツが楽しめます。特に夕方に衣岩湖の上に眩しく広がる夕焼けが見える客室は、我が家のように快適に過ごせるよう準備が整っています。 夏には涼しい湖が感じられ、秋には素敵な紅葉が誘惑し、冬には白い雪が降る素晴らしい風景も満喫できます。 ベニキア春川ベアーズホテルは、顧客感動のための差別化されたサービス、明るい笑顔で訪れる宿泊客に胸いっぱいの思い出を作れるよう最善を尽くし21世紀のリゾートホテルをリードしています。


済州道(済州市 ) , 구 제주


京畿道(坡州市 ) , 坡州(ヘイリ村)

ホメオは思い出を贈る気持ちで家具を豊富に取り揃えました。ずっと前から親しい間柄だったかのようなぬくもりを来客に与える所です。数多くの生活小物で飾られており、目と心を楽しませてくれるカフェホメオは、観光客の旅の疲れも癒してくれます。


釜山広域市(西区)

松島防波堤に隣接する釜山ビーチ観光ホテルは、綺麗で静かな釜山の海が一望できるホテルです。釜山の中心街(南浦洞/光復洞)や釜山の人気スポット「チャガルチ市場」などにも近く、ビジネスや観光に最適です。 かもめの鳴き声やさざ波の音が聞こえるクラシックなヨーロッパ風の部屋からは、釜山港が一望できる大型のバルコニーが完備され、ヨーロッパの宮殿を思わせる最高級の木製インテリアが目を引きます。 便利な設備やクオリティ高いサービスで、ゆったりくつろげるひと時をご堪能ください。


慶尚南道(晋州市 )

晋州城 (チンジュソン) は文禄の役と関係の深いところです。晋州城は三国時代には居列城 (コヨルソン) 、高麗時代には矗石城 (チョクソクソン) と呼ばれていましたが、朝鮮時代に入ってから晋州城と改称されました。石垣造りの城の周りが約1,760メートル、高さは約5~8mあり、城内に井戸と泉がそれぞれ3つずつあり、当時は軍倉もあったといいます。これよりも先立って 『東国輿地勝覧』に掲載されている河崙 (ハリュン 1347-1416年) の『城門記』によれば城の跡だけ残っているため、いつ築かれたのか分からないが、倭寇の侵入が頻繁だった高麗の禑王 (ウワン) 5年 (1379年) に晋州牧使 (※1) に石垣造りにさせたとあります。この時、城の周りは800歩 (※2) で、城の高さはおよそ30尺を越え、義正門 (ウィジョンムン 西側) 、知済門 (チジェムン 北側) 、礼化門 (イェファムン 南側) があり、城外は西側に青川 (チョンチョン) が、南側には長い川 (南江 ナムガン) が流れ、北側には池があり、城と池の間にはお堀があったとあります。このように高麗末期に倭寇の攻撃を防御するための砦に築き直したこの城は、朝鮮先祖25年 (1592) に文禄の役が起きた時、湖南 (ホナム) に進出しようとする外敵を防ぐ関門となりました。城内にはいくつかの楼閣や祠、国立晋州博物館、野外公演会場などがあります。※1 牧使 ‘牧’とは地方行政の単位のことで、これを治めた文官。※2 歩 距離を測る単位。周尺で約6尺。