京畿道(加平郡) , 南楊州

加平ソリゲレンデ(カピョン・ソルメジャン)は年中利用できます。冬季は毎年若干の違いはありますが、大体12月上旬から3月上旬まで運営しています。大部分のソリゲレンデが人工雪を撒いているのに対し、ここはスロープの下にひいてある人工芝生と太陽を背にしているという地域的特性の為、雪が溶けません。他のところより利用期間が1カ月近く長く、冬の終わりまで自然雪でソリを楽しむことができます。また、「水平歩行器(ムービング・ウォーカー)」が設置されているので、そりを持って立っているだけでスロープ出発地点まで移動することができます。大人用と子ども用の2つのスロープがあり、子ども用スロープの横の空間を利用して、スノーハウス(氷の家)と雪合戦場も別に作られています。


京畿道(抱川市 ) , 抱川

抱川アートバレーは、放置されていた廃採石場を、抱川市が韓国で初めて文化と芸術の力で環境を復元させ、複合文化芸術空間として2009年に新たにオープンさせたところです。オープン以降、たくさんの人が訪れ、企画展示、週末の公演、企画公演など、様々なプログラムで観覧客を迎え入れています。また、抱川アートバレーの天文科学館では、宇宙科学体験の名所として2014年8月1日に正式にオープンし、遊びと体験ができる宇宙天体科学展示館や最先端4D映像館、星座体験ができる天体観測室などが備えられています。


京畿道(竜仁市) , 龍仁

京釜高速道路、嶺東高速道路の新葛分岐点の付近に位置しているので高速道路からアクセスしやすく、エバーランドや韓国民俗村、京畿道国楽堂、ナム・ジュン・パイク・アートセンター、京畿道博物館が徒歩2分のところにあります。ホテル前には烏山川が流れており、散策、ジョギング、サイクリングのようなレジャースポーツを楽しむのに適しています。


京畿道(安城市)

京畿道安城から北に40里ほど離れており、天の川という意味の美しい韓国固有語で呼ばれているミリネは、韓国最初の司祭である金大建神父のお墓と彼の母親であるウルスラ、金神父に司祭品を与えた朝鮮教区第3代教区長ペレオール主教、そして金神父の遺体をこの場所に安葬した李敏植ビンチェンシオのお墓が並んでおかれている場所です。聖地に入ると静けさの中にも穏やかさが感じられます。信者でなくとも聖地を見渡すと心が洗われるような気がします。この地がミリネと呼ばれるようになったのは、天主教信者が辛酉迫害(1801年)と己亥迫害(1839年)から逃れ、この地に隠れ住み、教友村を形成し、夜になると彼らの家々から零れ落ちる灯が月明かりに照らされ、まるで天の川のように見えたためです。 本来ミリネは、京畿道広州、始興、龍仁、楊平、華城、安城一帯など、初期の天主教宣教地域をなしていた地域の一つでした。そのため、金神父がミリネに埋葬されてから50年後の1896年に初めて本堂が作られた際、この地にはすでに1,600人以上の信者がいました。26歳で処刑された金大建神父は、葬儀も行われないまま、処刑されてから40日後にようやく李敏植ビンチェンシオにより、人の目を避け一週間背負われ、この地ミリネに移され安葬されました。ミリネは1972年から本格的な聖域化作業が始まり、1989年に荘厳な103位聖人記念大聖堂が完成しました。聖地に入ると一番最初に目に入るのが、聖地の真ん中に雄壮に立っている記念聖堂です。この聖堂は天主教103位の諡聖を記念するため建てられたもので、記念聖堂の後ろ側につづく十字架の道には、イエスがローマ兵士に捕まり十字架にかけられ苦しみ亡くなり墓に埋葬されるまでの過程が表された青銅彫刻15点が立っています。金大建神父の墓と銅像、聖母聖堂、ゲッセマネの園(あちこちに転がっている石を自然そのままに利用した園)などを見て歩くには2~3時間所要します。 *金大建 1822~1846(純祖22~憲宗12年) 韓国最初の神父であり、天主教の聖人。洗礼名アンドレア。本貫金海。忠清南道内浦において篤実な天主教徒であった両親のもとに生まれました。その後、天主教の弾圧から逃れ、京畿道龍仁のコルベマウルに移り住みました。幼い頃から祖母と両親から天主教の教えを受けました。1836年(憲宗2年)フランスの神父モーバンから洗礼を受け、神学生として選ばれ、崔良業、崔方済らとともに中国のマカオに渡り、パリ外国宣教会のカレーリ神父から神学をはじめとした西洋学問とフランス語、ラテン語などを学びました。その後マカオにおいて民乱が起きると1839年にフィリピンのマニラに移り、そこで学び6か国語を習得しました。1842年(憲宗8年)フランス軍艦提督セシルの通訳官をした後、数回の失敗の果てに1845年(憲宗11年)故国を離れてから9年ぶりに帰国しました。人の目を避け布教に邁進しながら、その後ペレオール神父を迎えるため、小舟に乗り中国上海に渡りました。 そこで陞品され、24歳の若さで韓国最初の神父となりました。その後、ペレオール、ダブルィ両神父を連れ、忠清南道江景を経て帰国しました。彼は地方伝道に出てから10年ぶりに故郷で母と再会しましたが、父は殉教していました。1846年崔良業と他の神父の入国のため、秘密裏に港を探したことで逮捕されソウルに連行され40回に渡る取り調べを受け、9月に朝鮮時代の死刑執行場であったセナムトにおいて殉教(当時26歳)しました。当時の状況では、斬首され軍門にさらし首にされるところでしたが、憲宗の力でさらし首にはされず、埋葬されることになりました。埋葬40日後に陽城面ミリネに住む李敏植氏により夜7日をかけ運ばれ、現在のミリネ墓地に安葬されました。1925年7月5日ローマ教皇ピウス11世から列福され、1984年5月6日には教皇ヨハネパウロ2世が韓国を訪問し、直接列聖が執り行われカトリックの聖人となりました。


京畿道(南楊州市) , 南楊州

洪裕陵は洪陵と裕陵を合わせた言葉です。丘を間にはさみ、同じ圏域にあります。洪陵洪陵は朝鮮第26代の高宗(1852-1919、在位1863-1907)皇帝と明成皇后(1851-1895) 閔氏の陵です。元々洪陵は明成皇后の陵としてソウル・清涼里にありましたが、高宗の死後は今の場所に移して一緒に祀られています高宗は興宣大院君・李昰應の2番目の息子で、12歳の若さで王位につきました。高宗は1897年、大韓帝国の樹立を宣布し皇帝の位につきましたが、日本の圧力が増す中、乙巳条約を結んで外交権を日本に奪われ、1919年徳寿宮にて67歳で崩御しました。明成皇后は驪城府院君・閔致禄の娘で、1866年(高宗3年)に王妃となりました。1873年、高宗の親政(王が直接国の政治を手がけること)をきっかけに政治的実権を掌握後、親露政策に不満を抱く日本人刺客に殺害されました。裕陵裕陵は朝鮮最後の王陵であり、最初の皇帝陵です。朝鮮第27代純宗(1874-1926, 在位期間 1907-1910)と、その妃である純明孝皇后(1872-1904)閔氏、継妃・純貞孝皇后(1894-1966)尹氏を合葬した唯一の「同封三室」の陵です。純宗は高宗と明成皇后の2番目の息子で、朝鮮最後の王です。民族主権を守護しようとした悲劇的な歴史の王でした。純明孝皇后は純宗が即位する前、皇太子として始めてオリニ大公園付近の龍馬山の麓に安葬されましたが純宗の死後、陵を移して合葬されました。純貞孝皇后は12歳の純宗の后となり、1910年、日本帝国が国権を奪おうとした際、玉璽(国家文書に使われた玉で作った王の印鑑)をスカートの中に隠したというエピソードの人物です。その後、国権は奪われ、大韓帝国は滅びてしまいます。死ぬ瞬間まで温和な性質と気品を忘れなかった純貞孝皇后は大韓帝国の最後の皇后です。洪陵と裕陵は従来の朝鮮王陵と異なる点があります。それは朝鮮の国名を大韓帝国にかえた際、王を「皇帝」と称したほど、皇帝陵の様式に従い明・太祖の孝陵を見習って作ったことです。洪裕陵には他の王陵では見られなかったキリンやゾウ、ライオン、獅子、ヘテなど多様な動物形態の石物があります。洪陵の石物は伝統的な方法で作られており、裕陵の石物は洪陵のそれよりも事実的かつ優れた手法が見られます。


京畿道(坡州市 ) , 坡州(ヘイリ村)

自然と文化が調和する美しい坡州市にある「Qホテル」はプロバンスタウンの前にあるホテル。ホテルの外観はすべでガラス張りで、広い客室に入るとホワイト系のインテリアが落ち着いた雰囲気をかもし出しています。周辺には広々とした芝生の丘や野外水上ステージなどの豊かな自然が特徴の「臨津閣平和ヌリ公園」や北韓(北朝鮮)が一望できる「烏頭山統一展望台」などの観光スポットがあります。その他「ヘイリ村」でもさまざまな見どころ食べどころがある他、近くの大型ショッピングモールではショッピングも楽しめます。


京畿道(楊平郡) , 楊平

ハーブ庭園には約50種のハーブがあり、水生湿地では湿地の生態を体験できます。その他にも樹木園の中央にある島や川辺の情緒を楽しめる散策路、熱帯植物のエキゾチックな雰囲気がある熱帯植物園、子どもたちが植物について学べる研究所などがあります。野花の鉢植え、ハーブ石けん、押し花のしおりなどが販売されており、各種の体験も楽しめます。


京畿道(華城市) , 水原

  隆陵 隆陵は朝鮮第22代正祖の父である莊祖(1735-1762)とその妃、獻敬王后(1735-1815)洪氏の合葬陵です。莊祖は朝鮮21代英祖の2番目の息子であり、1736年(英祖12年)に皇太子となりました。さまざまな方面において皇太子としての優れた面貌を備えていましたが、1762年に父・英祖の命令で米びつの中に監禁され亡くなりました。莊祖の陵は元は京畿道楊州郡拜峰山にありましたが、彼の息子・正祖が即位すると華城の華山に移し顯隆園としました。後に莊祖として追尊され現在の位置に墓を移した後、陵号(墓の名前)を隆陵としました。獻敬王后は1744年に皇太子の妻となりました。夫が非業の死を遂げた後、還暦を迎えた1795年、甥・洪守栄の願いで莊祖の惨事を中心にした自伝的回顧録「閑中錄」を残しました。資料的価値の高い「閑中錄」は「仁顯王后伝」とともに宮中文学の双へきを成しています。京畿道華城市安寧洞にある隆陵は、皇太子の墓である本来の形式に木蓮と蓮の模様を刻んだ屛風石を設置し、上界空間と下界空間に分けて空間を王陵のように作りました。上界には陵、魂遊石(魂が出てきて遊ぶようにした石という意味で、王陵の封墳の前に置かれた四角形の石)、 望柱石(墓の前の両側に造られた一対の石柱)が配置されており、下界には文人石(長明燈の左右にある文官の形をした石)、石馬(石で造った馬)が配置されています。健陵健陵は正祖(在位:1776-1800, 1752-1800)と彼の妃の孝懿王后(1753-1821)金氏の墓です。 正祖の遺言に従い父の陵である隆陵から近い場所に安葬されました。莊祖と獻敬王后(惠慶宮 洪氏)の2番目の息子であり、1959年(英祖35年)、8歳で皇太子の長男となりました。党争の渦の中王位についた正祖は、在位24年の間蕩平策(党争の弊害をなくすために各党派で人材を登用した政策)を実施して国を治め、王室の図書館である奎章閣を設置し、学問の研究に大きな業績を残しました。彼の妃である孝懿王后は金時黙の娘で1762年、10歳で皇太子の長男の妻になりました。1776年に正祖が即位し王妃となりました。一生をつつましく暮らし、1821年(純祖21年)に昌慶宮慈慶殿にて69歳でなくなりました。健陵は合葬陵で隆陵の例に従いましたが、屛風石(封墳を保護するために 封墳の下の部分を囲んだ石)を巡らせた点を除けばほとんど隆陵の構成と似ています。 健陵や隆陵とともに同一史跡に指定されました  


京畿道(城南市) , 盆唐

京畿道 城南市 盆唐に位置する「 盆唐 (プンダン)オリンピックスポーツセンター」。こちらは総合体育施設として地下3階から地上5階までの規模を誇る室内アイスリンクです。フードコート及びサービス施設、多目的室内体育館、ジム、テコンドー場などがあり、その他にもゴルフ場、プールなど数多くの施設を設けています。最新の設備と氷質を備えている地下1階の室内スケートリンクは、オールシーズンで楽しめます。


京畿道(富川市)

前身であるK-ONEホテルをリモデリングしてローザンヌ・ホテルとして内外的な変化を追求した。 既存の顧客や、今後訪問する予備お客様に最上のサービスを提供しようと努力している。