忠清南道(瑞山市 )

伽倻峰(677.6m)を中心に、元曉峰(677m)、峨嵋峰(621.4m)、日楽山(521.4m)、水晶峰(453m)、牙王山(307.2m)などの峰がつながっていて多様ながらも難しくない登山路があり、老若男女誰でも登山を楽しむことができます。また、頂上からは西海が見え、春になるとツツジとレンギョウ、野生花が咲きます。 百済時代の磨崖石仏の最高の傑作であるとされている国宝第84号瑞山磨崖三尊仏像をはじめ、普願寺址、開心寺、日楽寺などが伽倻山にあります。また、国宝1点、宝物6点、その他文化財4点をはじめ、各種文化財があります。


江原道(鉄原郡)

統一新羅時代の景文王(キョンムンワン)5(865)年、高麗末の僧・道詵(トソン)国師は高さ91cmの鉄造毘盧舎利仏坐像を鋳造・奉安するため、江原道(カンウォンド)鉄原邑(チョロンウプ)栗梨里(ユルリリ)里にある安養寺(アンヤンサ)に他の僧侶とともに赴きました。 その道すがら、しばらく休息をとっていると、持ってきたはずのこの仏像が突然姿を消してしまいました。あわてて僧侶らはあたり一帯を探すと、現在この仏像が安置されている到彼岸寺(トピアンサ)の場所に安座している状態で見つかります。 道詵国師は何かの思し召しとこの仏像が見つかった場所に小さな庵を建て、この仏像を祀り、それが現在の到彼岸寺になったと言われています。このような逸話から鉄造仏像が永遠の安息の場である彼岸に到達したとして、寺の名前を到彼岸寺と命名したといいます。 現在でも境内には道詵国師が作った国宝第63号の鉄造毘盧舎利仏坐像や宝物第223号に指定されている高さ4.1mの花崗岩からできた三層石塔が残されています。 以前までは民間人統制区域で民間人の出入りが制限されていましたが、現在ではどなたでも自由に行き来できるようになりました。 * 主な文化財 1) 到彼岸寺三層石塔(宝物第223号) 2) 到彼岸寺鉄造毘盧舎利仏坐像(国宝第63号) 3) 孤石亭及び蓴潭(記念物第8号)4) 鉄原天通里渡り鳥渡来地(天然記念物第245号)


忠清南道(論山市 )

遯岩書院は1634年、現在の場所より1.5キロメートルほど離れた場所に建てられ、1660年に王より扁額が下賜されました。書院が建てられた場所は低地で、洪水のときに庭まで水が流れ込んでくるため、1880年に現在の場所に移されました。1865年の書院撤廃令が出たときも撤廃を免れた書院です。儒学者により毎年2月と8月の中丁(月の中旬の丁(ひのと)の日)に祭祀が行われています。 ※所有者:光山金氏一族


京畿道(坡州市 )

統一情報化村(通称「統一村」)は民間人統制線(民統線)の北端にある村で、板門店、第3トンネル、都羅山展望台など安保観光地をはじめ名所旧跡がいたるところに点在しており、統一の夢を抱き南北を貫く鉄道・京義線(キョンイソン)や道路の南側玄関口となっている場所です。 統一村の中にある長湍豆(チャンダンコン)マウルで食事をした後、近くの情報化村農特産物広報館2階には民統線内で唯一お茶を楽しめるカフェがあり、いわばここが韓国の最北端にある民統線カフェになっています。 また肥沃な土ときれいな自然環境が作り出す農産物・長湍人参、長湍豆(坡州市長湍面などで栽培される大豆)、長湍米などは長湍三白(チャンダンサムベク)として古の時代に王に献上された農産物で、それ以外にもオニノヤガラ、トウガラシ、ゴマ、ドングリの澱粉でゼリー状に固めたトトリムの原材料となるドングリ粉など良質の農産物が生産される場所としても有名です。 *民間人統制区域 非武装地帯の外側の南方限界線を境にし南側へ5~20kmの幅で設定した民間人統制区域で、民間人出入統制線とも呼ばれます。1953年の休戦以降、南北の軍隊の軍事分界線が引かれ、双方後方へ2kmの幅で非武装地帯(DMZ)を設定、南側はさらにその外側に民間人統制区域を定め、一般人の出入りを統制しています。


ソウル(鍾路区) , 仁寺洞・鍾路

※ 2019~2020 韓国観光100選 ※ 慶熙宮(キョンヒグン)興化門(フンファムン)は朝鮮時代の光海君8(1616)年に建立された慶熙宮の正門です。 慶熙宮は建立当初、慶徳宮(キョンドックン)と呼ばれ、景福宮(キョンボックン)を北闕(プックォル=北の王宮の意)、昌徳宮(チャンドックン)を東闕(トングォル)と別名呼んでいたことから、西闕(ソグォル)とも呼ばれていました。 元々この場所には朝鮮時代の第16代の王・仁祖(インジョ・1595~1649年)の実父で第14代の王・元宗(ウォンジョン・1580~1619年)が王位に就く前に暮らしていた潜邸がありましたが、第15代の王・光海君(クァンヘグン・1575~1641年)がこの潜邸の場所が風水地理でいう王を誕生させる王気が集まる土地と信じ、この家を奪い、新たに慶徳宮を建立するに至りました。 日帝強占期の1910年には慶熙宮を取り壊し、京城中学校(現在のソウル高等学校の前身)を設立しました。この時、興化門は残されましたが、1932年、安重根(アン・ジュングン)義士が暗殺した伊藤博文の祠堂・博文寺の正門として移築されました。 1979年、新羅ホテルが博文寺があったソウル特別市中区(チュング)奨忠洞(チャンチュンドン)にオープンし、一時、新羅ホテルの正門として使われましたが、1988年再び現在の地に移築されました。 なお慶熙宮は1986年にソウル市により公園として開放されています。


全羅南道(珍島郡 )

珍島郡は西海(黄海)と南海が出会う韓半島(朝鮮半島)西南の海にある約230の島から成っています。本島である「珍島(チンド)」は、「1年農業して3年暮らす」という言葉があるほどに農耕地が広く、実り豊かなところです。また、島周辺の海では魚類と海藻がたくさんとれるため、島の名前も「宝の島」という意味を持つ「珍島」と付けられました。島全域にはさまざまな遺跡が散在しており、なかでも龍蔵山城と南桃石城は高麗時代の三別抄の抗蒙遺跡址として、鳴梁海峡は壬辰倭乱(文禄の役)当時、李舜臣将軍が倭軍を打ち破った戦勝地として知られています。珍島には八景と三宝があり、珍島八景とは鳴梁大捷址である鬱陶項海岸、神秘の海割れ、観梅島の観梅八景、南桃石城、雲林山房、龍蔵山城など、三宝は珍島犬、クコの実、自然産岩ワカメをいいます。毎年旧暦2月末頃には古郡面の回洞里と義新面の茅島里間に長さ2.8キロメートル、幅40メートルほどの道が現れる海割れが見られます。韓国版モーゼの奇跡として広く知られたこの神秘の海割れが起こる頃には燃灯祭が開催され、多くの観光客が訪れます。珍島と海南の間の鬱陶項には1984年に珍島大橋がかかり陸路で島に出入りすることができるようになりました。


釜山広域市(海雲台区) , 海雲台

museum DAH:(ミュージアム・ダ)は韓国で初めてのメディア専門美術館で、世界最大級を誇るLED展示スペース。 <完全な世の中>では、芸術と科学、ファッション、ファーニチャー、映像、音楽が融合し、いままでにない全く新しいジャンルの芸術へと昇華したメディアアート作品をご覧頂けます。 一般的に静止した動かない作品を展示するスペースとは異なり、museum DAH:は絶え間なく変化するメディア作品が展示されるスペースで、芸術と新たな時代の先端テクノロジーが融合・創造する、8000万個のLED発光ダイオードが彩る今までにない新たなデジタル空間です。 またアレッサンドロ・メンディーニ、カリム・ラシッドなど世界的なデザイナーとのコラボ作品もご観覧いただけます。 museum DAH:は芸術にあまり詳しくない方々をはじめ、年齢・性別の分け隔てなくどなたでも気軽に訪れることができる美術館で、ご家族連れやお友達同士、カップルでお楽しみいただけます。


済州道(西帰浦市)

西帰浦市江汀洞の東側にある江汀川は普段水量が少ない済州島の一般河川とは違い、四季折々できれいな水が流れる所です。江汀川に隣接して江汀取水院と浄水場があり西帰浦市の飲料水の70%を江汀川で生産供給しています。江汀川は毎年11月から翌年4月まで湧出数量が多少減りますが、豊水期である6月~9月には多くの数量が湧出され海まで流れています。河川の長さは全長16キロで途中橋梁6ヶ所、滝13ヶ所があり、きれいな水が流れる河川の両側には奇岩絶壁とヒノキが茂り絶景です。江汀川には他の地域では見ることが難しい魚が多く棲息し、また天然記念物第327号であるオシドリが飛来するのがたびたび目撃されています。


慶尚南道(南海郡 )

三東面、昌善面にある只族村の間を流れる只族海峡では原始漁業竹防簾が行われています。只族海峡に、V字型に竹でできた定置網である竹防簾は長さ10mほどの竹300本ほどを流れが速くて水深が浅い場所に水の流れとは逆方向になるように設置する原始漁場です。只族海峡は水が澄んでいて流れが速いためこの場所で生産される水産物は淡白で歯ごたえも良くておいしいです。水が流れる時にを見て、1日に2回、魚を引き上げる姿を見ると自然産の刺身が食べたくなるでしょう。特にカタクチイワシやワカメは只族海峡の最高の特産物です。