登億温泉
 
慶尚南道(南海郡 ) ,
蔚山 蔚州郡、嶺南アルプスの神仏山の麓に位置する登億温泉は実に72,727.6m²(22万坪以上)の規模をもつ大きな温泉地です。ここには神仏山温泉、彦陽温泉、迦智山温泉などが集まっています。 嶺南のアルプスと呼ばれる神仏山と迦智山、肝月山など、海抜1,000mを越える山脈と接しており登山を終えた後に登億温泉で汗と疲れをとり温泉を楽しむのにぴったりです。 ここの温泉水は主にアルカリ性重曹泉で各種皮膚の炎症、神経痛、消化器官の疾患、気管支炎、高血圧、肌の美容に効果があるといいます。またそのまま飲料水として飲むこともできるのが特徴です。近隣には‘紫水晶洞窟の国’、‘おばけ道路’、酌川亭、肝月自然休養林、石南寺などの観光地があり一緒に観光を楽しむのも良いでしょう。  

抱川二東カルビ村
 
京畿道(抱川市 )
抱川(ポチョン)二東(イドン)カルビ村とはカルビ店の密集地のことで、1960年代初めに「二東カルビチプ」と「ヌタリカルビチプ」が開店し、その後、次第にカルビ店が集まって形成されました。1980年代に山岳会の人々によってその名声が全国的に広まったという話が伝わっています。二東カルビとともに二東マッコリも抱川の名物です。

潭陽リゾート温泉
 
全羅南道(潭陽郡 ) ,
潭陽(タミャン)リゾート温泉(オンチョン)は1,260個ものロッカーを備えています。男女共に様々な浴槽や露天風呂、チムジルバン、エステ、マッサージ室もあります。. こちらの温泉に含まれている成分は日ごろの疲れを癒してくれることで知られており、ストレスを解消、関節炎、美容にも非常に効果的です。

太白石炭博物館
 
江原道(太白市) ,
国家機関産業の原動力になっていた石炭は韓国が唯一所有しているエネルギー源として国民生活の燃料供給と国家経済発展に大きく寄与してきました。しかしながら、現在の物質文明の発達と清浄エネルギーの一般化で需要が減少し政府の石炭産業の合理化政策によって炭鉱縮小化され、その重要性がだんだんと低くなってきています。太白石炭博物館はこれまでの石炭産業の変遷史と地下資源の開発史をひとつに集めて、体系的で一目でわかるように展示しました。忘れかけられている石炭の歴史的な教育の場として活用するために1997年5月27日に開館しました。

江陵グラミー温泉
 
江原道(江陵市)
江陵(カンヌン)グラミー温泉(オンチョン)の水は地下500mから汲み上げたもので、若干塩分が含まれているため刺激がなく、子供や老人の患者に適しています。また、神経痛や筋肉痛、婦人病にも効果があることで知られています。温泉水は飲むこともでき、飲むと便秘などにも効果的です。また、グラミー温泉の水は肌に軽い刺激を与えて炎症を抑え、痛みを和らげてくれる効果があり、肌のかゆみや炎症はもちろんふけにも効果的です。

武昌浦海水浴場
 
忠清南道(保寧市 ) ,
朝鮮時代の軍倉址であり、1928年に西海岸で初めて開放された海水浴場です。砂浜は長さ1.5キロ、水深は1-2m程度で浅く、海水浴場の周辺に松林が茂り海水浴と森林浴を同時に楽しめます。 特に、 毎月引き潮の時にはこの海水浴場から無人島であるソクデ島までの1.5kmに渡り、「韓国版モーゼの奇跡」と呼ばれる海割れ現象が見られることでも有名で、1996年から本格的に一般公開されました。

青松 平山申氏 判事公派宗宅と分家古宅
 
慶尚北道(青松郡 ) ,
平山申氏判事公派宗宅(ピョンサンシンシパンサゴンパジョンテク)は、1990年に慶尚北道民俗資料第89号に指定された古宅です。 この家は、朝鮮時代の粛宗(在位期間1674~1720)の時代に申漢泰が建てた建物で、申崇謙将軍の15代子孫である申得清を始祖としています。 家の構造は、朝鮮時代の上流階級の典型的な住宅様式をしています。大門の横にヘンナンチェ(門屋)とコッカン(庫間、穀物や物を入れておくところ)があり、広い庭にはㅁ型のアンチェ(母屋)と別室、亭子(あずまや)などが建っています。 また、平山申氏判事公派宗宅の近くには棲碧古宅(慶尚北道民俗資料第101号)と泗南古宅があります。どちらも朝鮮後期に建てられた平山申氏判事公派一族が暮らしていた家屋であることから、このあたりに集姓村が形成されていたことがうかがえます。

富川弓博物館
 
京畿道(富川市)
韓国の人々は、古代から弓を作り、弓の扱いに非常に長けていたとされています。古代から近代に至るまで繰り返されてきた数多くの戦争で、弓は重要な武器として重宝されてきました。富川弓博物館は、弓に込められた先祖の魂と知恵を未来に伝えることを目的に建設されました。 文化財としての価値と重要性が認められ、1971年重要無形文化財第47号に指定、弓師匠として保護されてきた国弓は、今日まで富川市素砂区深谷本洞を中心に5代にかけて160年以上その伝統が脈々と受け継がれてきました。 展示館には弓や弓矢、火車など国弓に関する各種品物や遺物が展示されています。韓国特有の弓に込められた先祖の魂と知恵を伺い知れる機会となります。

陶山書院
 
慶尚北道(安東市 ) ,
陶山書院(トサンソウォン)は1574年宰相だった李滉(イファン)の学問と徳行を追慕する弟子達と儒学者達が中心になり建てられた儒学学校です。建築物の構成の面で見ると大きく陶山書堂と陶山書院に区分されます。1951年、李滉はこの地に移り住んだ後、弟子の育成のための学校である学校陶山書堂を直接設計して作りました。このとき、学生たちの寄宿舎として隴雲精舍と奴婢たちの住居である下庫直舍も一緒に作りました。1570年に李滉が亡くなると、2年後の1572年には位牌を尚徳祠(宝物第211号)に祀ることが決まりました。弟子たちは祠堂に李滉の位牌を安置して祭祀を行った後に典教堂(宝物第210号)と東西斎を建て書院として完成させました。書院が完成すると宣祖が陶山書院に扁額をくだしました。